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東京高等裁判所 昭和44年(う)1057号 判決

被告人 甲野太郎

主文

原判決を破棄する。

被告人を無期懲役に処する。

理由

(控訴趣意)

被告人及び弁護人保持清作成提出の各控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

(当裁判所の判断)

一、被告人の控訴趣意第一点について。

所論は、原判示(罪となるべき事実)中(二)、および(三)摘示の各事実は、被告人が司法警察員の誘導するままに述べた事実無根のことを記載した供述調書に基づき原審が認定したものであつてその認定はいずれも誤りである、というのである。

しかし、所論指摘の、(証拠略)は、いずれも被告人が原審公判廷において証拠とすることに同意したうえ取り調べられたものであるばかりでなく、その形式、および内容をし細に調査し、かつ、他の関係各証拠とももれなく対比検討し、さらには当審における証人青木光三郎の供述を充分吟味してみても右各供述調書の作成過程において、所論のいうような取調官による誘導が行なわれたことを疑うに足りる痕跡を認めることができないから、原審がこれらの供述調書を証拠としたことは、もとより正当である。しかも、原審が、右各供述調書を他の多くの関係証拠と総合して所論のいう(二)、および(三)の原判示各事実を認定したものであることは、原判決の証拠説明の部分を一読して明かなところ、記録を精査し、当審における事実取調べの結果に徴しても、原判決の右認定に誤りがあるとは思われない。論旨は理由がない。

一、弁護人の控訴趣意第一点について。

所論は、被告人の本件各犯行は、動機となつた刺戟とは全く無関係な対象に向けられ、かつ、精神的葛藤の解決に無益な行為である、という意味において屈折反応であり、結局、被告人を本件のような連続犯行にかりたてたものは、おそらく恐怖心によるものと考えられ、この恐怖心に対し過剰反応を示したところに被告人の異常さがうかがわれる。これらの諸点を考慮すれば、被告人の本件各犯行時における精神状態は、心神喪失あるいは心神耗弱をもつて律すべきものであるにもかかわらず、これを否定した原判決は、事実を誤認したものであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

おもうに、被告人が犯行時に心神喪失あるいは心神耗弱の状態にあつたかどうかは、あくまでも裁判所が法的立場から判断すべき事項である。裁判所は、被告人の犯行自体・その動機、目的、言動、その他の事情あるいは被告人の各供述調書の記載内容、公判廷における供述内容ないしその態度等いつさいの資料を総合してこれを判定すべきことはもち論であるが、その判断事項は、必然的に生物学的心理学的要素と深く結びついている以上、所要の場合には、心理学者や精神病理学者の特別の知識経験を参酌して判断することになる。本件につきこれをみると、被告人に関しては本件犯行以前に非行をおかした際二回にわたつてなされた少年鑑別所の鑑別の結果が残されている。そのうえ、本件犯行に関しても、少年鑑別所で鑑別されたばかりでなく、原審において一回、当審においても前後二回にわたつて精神鑑定医による被告人の精神鑑定がくり返し行われ、しかも、各担当者に対して公判廷において証人あるいは鑑定人として詳細な尋問がなされていて、被告人の生物学的心理学的ないしは精神病理学的な側面よりする解明は、充分尽されているものと思われる。所論もいうように、被告人の本件各犯行、とくに原判示(一)、および(三)の各犯行は、いずれもその動機となつたと思われる刺激に対しまつたく無関係な対象に向けられているという点においてきわめて特異的である。本件が重大事犯であり、被告人の犯時の精神状態如何が訴訟を通じての最も主要な争点であつたこともさることながら、前記のとおり鑑別のほかにもなお三回にわたつて精神鑑定がくり返された一因もここにあるわけである。

まず、前記鑑別や鑑定の結果、その他記録ならびに当審における事実取調べの結果にあらわれた限りにおいて、被告人が、本件各犯行当時、直接なんらかの精神障害を来たすような精神病に罹患していた、という疑いはないが、ただこの点で問題になるのは、被告人がてんかんに罹患していたかどうかの点である。当審における鑑定人岩佐金次郎の鑑定書によると、被告人がてんかんに罹患している疑いがある、という。しかし、同鑑定人も、被告人がてんかんに罹患していると断定しているわけではなく、かえつて、被告人の供述しているいわゆるてんかん症状なるものについて相当強い疑いを抱いていることは、同人の当審における証人兼鑑定人としての供述によつて明らかである。本件についての少年鑑別所の鑑別ならびに原審における鑑定人本沢実の鑑定に際し、徐波について被告人から異常脳波が出現したことが認められている。また、当審における鑑定人岩佐金次郎、ならびに同中田修の両名は、いずれも被告人の頭部前方部に出現する徐波の他に全般的な辣徐波結合の発生を確認している。被告人の脳波のうちに異常脳波のあつたことは疑いがない。右異常脳波のうち頭部前方部に出現する徐波はしばらくこれをおくとしても、問題は、全般的な辣徐波結合である。これは精神医学的には被告人の脳にてんかん性要因が存在していることを意味しているものである。これは被告人の精神状態さらには責任能力を判定するにあたつてきわめて重要である。しかし、それだからといつて、右異常脳波の存在だけから被告人がただちに責任能力を失うような意識喪失発作等を伴うてんかん病に罹患していると断定できないことは、当審における鑑定人中田修の鑑定書によつて明らかである。すなわち、厳正な意味において責任能力が問題となるためには臨床発作が確認される必要がある。なるほど、被告人の訴える頭痛、嘔気などの自律神経症状の発作を全面的に否定することは妥当でないであろう。この意味において、被告人が自律神経性発作を有するてんかんに罹患しているとまで断定してよいかどうかは問題であるとしても、少なくともてんかん性要因の存在していることは否定できないところである。しかし被告人が訴える意識喪失の発作そのものについては慎重に検討する必要がある。被告人のこの訴えは、当審審理の段階においてはじめてなされたものであつて、捜査段階においてはもち論のこと原審審理の時点にあつてもその趣旨の供述の片りんすらない。当審に提出された被告人の控訴趣意書にもまつたくこれを窺うに足りる記載がない。しかも、その意識喪失なるものは、常に重大な犯行の直前に起り、それが終つた段階に覚醒するという状況である。そのうえ、被告人は、意識喪失の直前に自己の意識が入れ替るようになると述べ、いわば意識喪失状態に陥るのを意識していることを認めているのである。しかし、これらはきわめて不自然である、といわざるを得ない。その他、本件犯行前にも意識喪失の発作があつた、と主張する事例は、本人が供述するだけで目撃者など客観的な裏付けのないものや、それ自体意識喪失発作とは認められないものばかりである。これらの点は、いずれも鑑定人中田修が、その鑑定書のうちで指摘しているところであるが、当裁判所も、また被告人の捜査段階や原審公判廷における供述よりみて、被告人にその主張するようなてんかんによる意識喪失の発作があつたものと認定するには躊躇せざるを得ない。被告人は、自律神経性発作を有するてんかんと称すべきものに罹患していたのかも知れないが、少なくとも被告人が、てんかんの要因を有していたものと認められることは、さきにも述べたとおりである。しかし、記録を精査し、当審における事実取調べの結果によつても、被告人が、本件各犯行時に自律神経性発作をはじめなんらかのてんかんの発作を発見し、それがために精神機能に障碍を来たしていたのではないかと疑うに足りる証跡はない。したがつて、被告人がこのような意識障碍を来たすような精神病者であるとか、あるいは本件各犯行を、そのような病的状態の発作時におけるものと認定することはできない。

ところで、さらに、被告人の知能は、普通域にあると認められる。しかし、感情面、意思面においては発達の遅れがうかがわれ、全体的人格としてみると未熟の部類に属すると思われる。前記頭部前方部に出現する脳徐波は、これと密接な関係があり、脳機能の未熟を示しているものと考えられる。これは、一つには被告人の生育歴によるものでもあろうが他面被告人の家系には精神障害者が少なくない。被告人自身にも遺伝的負因の存在が疑われるゆえんである。そして、おそらくはこの両者があいまつて、被告人を自己顕示性、破壊性、無情性、爆発性などを特徴とする異常性格者たらしめたものと思われる。とくに、被告人は、幼時から人を驚かせていわゆるスリルを楽しむ性癖があつたようである。各鑑定書や鑑別結果通知書も、その表現に多少の差異はあるが、いずれも被告人の性格面に偏倚があることを指摘しているのである。それを称して精神病質というか性格異常というかは精神医学的には争いがあるとしても、少なくとも性格の偏倚と呼ぶべきものがあることは否定し得べくもない。この点に関連していま一度想起しなければならないことは、さきに述べた被告人のてんかん性要因である。この要因が前記のような性格形成に影響を与えなかつたとは考えられないばかりでなく、むしろ、被告人の爆発的性格は、このてんかん性要因と結びつきやすいものであり、前記のような被告人の人格形成の過程に相当なハンデイキヤツプを与えたことは、当審における証人兼鑑定人中田修も認めているとおり、これを肯定せざるを得ないであろう。

さて、本件各犯行当時被告人が、当審において主張するような意識喪失の発作を起こしていたものと認められないことは、さきに指摘したとおりである。すなわち、(証拠略)をし細に検討し、かつ、これらをその余の各関係証拠とも対比し、さらに当審における事実取調の結果をも合わせて考慮しても、本件各犯行当時における被告人の意識が清明な状態にあつたものと認めざるを得ないのであつて、この点は、本沢実および中田修両鑑定人の一致して認めているところである。ただ、当審における鑑定人岩佐金次郎の鑑定書には、原判示(二)および(三)の各犯行の際被告人が意識障碍を示していた疑いがある、との記載があるが、これは、被告人のいう発作性の意識障碍が事実あつたことを前提とした場合の結論と認められ、しかも、右障害の事実の存在そのものについては、これを確言しているわけではないのであるから、別段右の認定と矛盾することにはならない。

しかし、それにしても、本件各犯行には所論の指摘するような特異の面があることは、これを否定することができない。所論は、これを刺激に対し無関係な対象に向けられた、かつ葛藤の解決に無益な行為であり、屈折反応である、という。

右所論にかんがみ、まず、原判示(一)および(三)の各犯行について考えてみる。被告人が、右各犯行にいたつた根底に、婚約して肉体関係まで結んだA子との関係の破綻(それに勤務先の職場に対する不満も、多かれ少なかれ加わつていたとは思われる。)から来る焦燥感、寂寥の念、さらには精神的荒廃、ひいては刺激性の亢進状態等の諸要素が伏在していたことを否定することはできない。そして、これらの情念の乱れにたえられず、仕事先から帰宅したのちも毎晩のように外出し、深夜自動車を運転して走りまわつているうち、ついに原判示(一)および(三)の各犯行へと発展していつたものと認められる。被告人は、その間の心理過程を司法警察員に対し次のように説明している。すなわち、「……昨年(昭和四二年)一二月二四日……捕まり横浜少年鑑別所に送られ、今年の一月一八日に釈放されて出て来ましたが、そのことでA子と喧嘩になり、本年二月八日にA子から絶交され婚約指輪を返されてしまつたので、そのために僕はすつかりさびしくなりデートする女を探がしましたが、……ことわられてしまい、僕はあせりとすさんだ気持ちになつたのですが、自分の心をどうすることもできず悪いことでもして押さえようとしていたのです。自分が一人でいることが耐えられなかつたのです。当時の気持ちを卒直に申し上げると、女の体が欲しいばかりでなく話し相手の女が欲しかつたのです。そのために、僕は自動車を運転している時に人通りのない薄暗いところで女性を見ると憎らしいようなおかしな気持ちになつて、女の腕か肩くらいのところに自動車をひつかけよういう気持ちになり、うんぬん。」と供述し、あるいはまた、「何回か女をはねとばして驚かしたことがありました。その時は若い女性に対する憎しみのような気持ちが少し程さつぱりしました、うんぬん。」とも供述しているのである。そして、このような心理状態が被告人を原判示(一)の犯行に駆りたて、さらには同(三)のB子に自車を接触させて驚かせよういう企を誘起させたが、それが運転操作を誤り予想外に大きな傷害を同女に与えてしまい、同女を自車に乗せて病院に運ぶ途中、意識を回復したB子が被告人の顔を凝視したため自己の犯行が発覚することをおそれ、同女を人気のない所に置き去りにしようとして自動車を運転進行中、にわかに劣情を催し、原判示のように同女を強姦しようとして処女膜裂傷の傷害を負わせ、その結果いよいよ犯行の露見するのをおそれるのあまり、ついにB子を殺害し去るに至つたものと認められる。

もとより被告人のこの心理過程は健全ではない。そこには、人を驚かせスリルを味うのを楽しむ被告人の性癖や、重傷を負つた被害者に対する性的欲動に基づく無情性、さらには犯行の発覚をおそれるためとはいえ、同女を殺害するという破壊的爆発的性格等のあらわれがうかがわれる。その意味で、右各犯行には、前記のような被告人の人格の未熟とともに爆発性、破壊性、無情性、等の性格の偏倚があづかつて力あつたことを無視することはできない。所論のいう屈折反応も、前記被告人の焦燥感、寂寥の念、精神的荒廃さらには刺戟性の亢進状態と、被告人の性格の偏倚とを結びつけて、はじめて理解し得るものと考える。そして、それを前提として考える限り、被告人の右各犯行時の精神状態は、一応正常の心理過程として理解可能であると考える。

ところが、原判示(二)の犯行の場合は、その動機が、前記(一)、(三)の場合とはまつたく異つている。すなわち、この場合にはA子との絶交による焦燥感や寂寥の念の影響は、少なくとも表面的には認められない。それは、利欲的動機からいわゆる空巣盗に入り、証拠湮滅のためと目ざす現金が予想したほどにはなかつたことに対するうつ憤払しの気持も手伝つて(もつとも、原判決は、この点を犯行の動機には加えていないが、この点は別段事実誤認として問題とするほどのものではない。)放火したものと認められるのであつて、そこには、被告人の爆発的、破壊的性格の表れを顕著に酌みとることができるから、その意味で、やはり被告人の性格の偏倚が放火の犯行の主因をなしていることは否定できないものと思われる。しかし、この点についても前と同様被告人の性格の偏倚を考慮しながらも、正常の心理過程として充分これを理解することができるのである。

それでは、この被告人の性格の偏倚は、被告人の各犯行時における精神機能になんらかの障害を来たさしめたものと認められるのであろうか。脳機能が未熟であるといつても是非善悪の別を判断する能力を欠きあるいはそれが著しく劣つていると認められないことは、一件記録ならびに当審における事実取調の結果に徴して明らかである。問題は、この是非善悪の判断に従つて行動する能力を欠き、あるいはその能力が著しく劣つていたかどうかである。被告人の性格の偏倚が前記のように被告人をして容易に犯行に至らしめたものであり、本件各犯行の大きな原因をなしていたこと、あるいは本件各犯行に相当な影響を与えていたものであることはこれを認めざるを得ないところであるが、当裁判所は、原判決挙示の証拠によつて認められる被告人の各犯行自体の態様、その動機、目的、その際における被告人の言動、その他被告人の生活歴等の諸般の事情、さらには被告人の司法警察員や検察官に対する各供述調書の内容、原審および当審公判廷における各供述内容、それに前記各鑑定書、各鑑別結果通知書、それに白井実、本沢実、岩佐金次郎、中田修の各証人あるいは鑑定人としての供述などを総合考察して、犯時被告人は意識も清明であり、被告人のこの性格の偏倚が各犯行時における是非善悪の弁別に従つて行動する被告人の能力を欠くに至らしめていなかつたことはもち論、これを著しく減弱させていたものとも認めることができず、したがつて、この点からいつても、被告人は、本件各犯行当時心神喪失あるいは心神耗弱の状態になかつたものと判断せざるを得ない。

以上の次第で、原判決には事実誤認の違法はなく、論旨は理由がない。

一、被告人の控訴趣意第二点および弁護人の控訴趣意第二点について。

所論は、いずれも原判決の刑の量定は不当である、というのである。

よつて検討するに、原判決は原判示(一)、(二)、および(三)の各事実を認定したうえ、(一)の事実については懲役刑を、(二)の各事実のうち現住建造物放火の罪については有期懲役刑を、(三)の各事実のうち強姦致傷の罪については有期懲役刑を、殺人の罪については死刑を各選択したうえ、(三)の殺人の罪について死刑に処し、したがつてその余の罪の刑を科さなかつたことは明らかである。

そこで、原判決が原判示(三)の殺人の罪につき被告人を死刑に処したことの当否を考察することとする。

おもうに、被告人の右殺人の所為が、犯行そのものとしては、稀にみる残酷、非道、かつ、執拗をきわめたものであり、これによつて回復し難い重大な結果をもたらしたばかりでなく、社会に与えた影響も大きく、その社会的責任の重大であることは、原判決が(量刑について)と題して詳細に摘示しているとおりである。なかんずく、深夜、自動車を運転して、たまたま帰宅途上の被害者B子を尾行し、人通りのとだえるのを見すまし、後方から自車を高速で接触させ、重傷を負わせ、同女をいつたんは病院にはこぶつもりで自車に乗せて走行中、たまたま意識を回復したB子が起きあがつて被告人の顔を凝視したため犯行の発覚をおそれて病院に行くのを断念し、当初は同女を人通りのない場所に置き去りにするつもりで進行をつづけているうち、にわかに劣情を催し、かくして原判示のような経過をたどつて敢行された被告人の一連の犯行は、人をして眼をおおわしめるものがあるとともに、なんの落度もなく、また被告人とはいささかのかかわり合いもないのに、たまたま同じ道筋を通り合わせたという不運からこのような残虐な仕打を受け、肉体を弄ばれ恥づかしめられたうえ、全裸のままで殺害された被害者の心情に思いを致すとき、不びんの情胸に徹するを覚える半面、被告人に対する強い非難の念を禁ずることができないのである。

しかも、被告人は、右B子に対する強姦致傷および殺人の各罪のほか、原判示(一)の傷害の罪、さらには同(二)の窃盗、現住建造物放火の罪をも犯しているのである。そして、右(一)の犯行は、右(三)の犯行の発端のときと同様に深夜帰宅のため歩行中の未知の若い女性の背後からいきなり自車を接触させて傷害を負わせたというもの、同(二)の犯行は、所携のドライバーを使つて空巣盗に入り、屋内を物色したのち、犯跡いんぺいと、思うような現金のなかつたことに対するうつ憤ばらしのため、その住宅に火を放つたというものであつて、いずれも被告人の強い反社会的な危険性を示すものといわれてもやむを得ないのである。このようにみてくると、本件殺人の犯行は、もとよりただそれだけのものとしてではなく、原判決が判示している他の各犯行との関連において量刑上考慮されなければならないことはいうまでもない。さらにさかのぼつて考えると、被告人の非行の萠芽は、すでに小学時代から見られ、じ来その犯罪的な傾向は、散発しながら続いている。すなわち、被告人は、小学校六年生当時消防自動車の来るのがおもしろいということから一〇数個所のごみ箱に放火したのをはじめ、けんか、窃盗、恐喝などの問題行動を起こすようになり、中学時代も怠学を続け、数回にわたる恐喝の非行を犯したのち昭和三八年四月教護院に収容され、同三九年五月同所を退院後しばらくは安定していたものの、その後ふたたび窃盗や銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪などを犯して、昭和四一年八月家庭裁判所で保護観察処分に付され、一応保護観察の成績は良好のように見えたが、まもなく窃盗、およびその後しばらくしてさらに傷害の非行を犯し、昭和四三年一月再度家庭裁判所で保護観察処分に付され、その保護観察中に原判示認定の各犯行を犯すにいたつたものである(さらに、当審における事実取調の際、被告人は、昭和四一年春ころ川崎市久地駅近くでまた同四三年はじめころ川崎市の登戸駅方面でいずれも放火したことがある、と供述しており((もつとも、被告人のいうところによると、右両件とも当時意識障碍があつた、ということになつている。))調査の結果、前者は川崎市垣一八二番地酒井満方で発生した火災がこれに照応するようであるが、同家の火災原因は、窃盗犯人が放火した疑いが濃い状況にあるとのことである。)。これら早期に発生しその後絶えることなく反復されて来た被告人の非行歴ないし犯罪歴のよつて来るゆえんを考えてみると、それは、環境からくる刺戟もあつたであろうが、なお、それらの刺戟に対し過敏な反応を示して爆発する被告人自身の内に伏在する犯罪的傾向の根深さを示すものといえるであろう。そしてこれら一連の非行歴ないし犯罪歴は、まさにさきに弁護人の控訴趣意第一点に対して論述した際指摘した、被告人の性格の偏倚と深い結びつきがあるものと認められる。右論点に対する判断を示した際掲記した各鑑別結果通知書や各鑑定書、さらには少年調査官の調査報告書等は、いずれもこのことを明らかにしているものと思われるし、そして、このことは、被告人の性格が犯罪と結びつきやすいことを示すものであり、その意味からいえば、被告人は、社会防衛的見地からはきわめて危険な存在である、といわざるを得ないのである。

このように考えてくると、原審が被告人に対し極刑をもつて臨んだ趣意も一応理解できないことはないのである。

しかし、さらに飜えつて考えると、被告人は、殺人とか強姦とかいう重大な犯罪を当初から計画して実行したわけではない。A子との愛情の破局とそれによる内心の空隙を満たすすべもない不満、さらにはこれらが生んだ焦燥感との寂寥の念、そして精神的荒廃、刺戟性の亢進状態等が複合し、これらは、被告人の性格の偏倚とあいまつて夜間路上の女性に自車を接触させて驚かすといういわば屈折状態となつて爆発し、これによつて、わずかに、いやされぬ心のはけ口を求めたものと思われることは、さきに弁護人の控訴趣意第一点に対し詳説したとおりである。そして、原判示(一)の事実についてその思惑どおりに事をはこび得た被告人は、さらに、原判示(三)にあるとおりB子に自車を接触させようとしたのである。ところが予期以上に同女に重傷を負わせてしまい、狼狽していつたんは被害者を病院へ運ぼうとして引き返し、同女を自動車に乗せたものの、意識を回復して起き上つたB子に自己の顔を凝視されるや、犯行の発覚をおそれるのあまり、病院へ運ぶのを断念し、人通りのない所に置き去りにしようと考え、その場所を求めて運転しているうち、にわかに劣情を催し、停車して姦淫しようとしたが通行人がいたためその目的を遂げず傷害を与えたが、そのころ対向するタクシーもあり、それに同所より引き返すにしてもその途中通行車両も多く不審を抱かれる危険もあることなどを思いめぐらし、いよいよ犯行の露見するのをおそれたその窮余の策として、いつそ同女を殺害して車外にはこび出してしまおうと決意し、ついに原判示のような犯行に及んだものと認められるのであつて、さきにも指摘したとおり当初から強姦や殺人まで計画してB子に車両を接触させたわけではなく、いわば雪だるま式に大きくふくれ上つた犯罪である。もとより自己勝手な気持から通行中の女性に自己の車両を接触させようなどという危険きわまる行為が、それ自体としてきびしく責められなければならないことはいうまでもないし、また、いかに事の成行きとはいえ、前記のように重大な犯罪へと発展していく途上において、これを自制することができず、それからそれへと罪の深みにみずからを引き入れて行つた被告人の責任の大きいものであることについても、多くの論議の要あるをみない。しかし、それにもかかわらず、やはり、当初から計画的にたくまれた犯行としからざるそれとの間に量刑上相当の徑ていを設けるのは、責任主義をとる刑法の立場からむしろ当然のことと考える。

なお、被告人の原判示各犯行の直接の契機となつたと思われるものは、婚約して肉体関係まで続けていたA子との愛情の破局(それに職場に対する不満の念も加つていたように思われるが。)に由来する被告人の安定を欠いた精神状態である、と認められることは、すでにしるしたとおりである。中学時代に同級生として心中ひそかに愛情を抱き、A子の歓心を買うための鉄棒の練習に励み、人も驚くほどに上達したり、A子の文字を身体にいれずみしてみたり、教護院退院後同女と交際するようになつてからは、時どき非行の間けつ的噴出はあつたものの、同女との結婚を夢みながら仕事には真面目に精出していたようである。幼時家計が苦しく母が病弱であつたため父母から充分な指導が受けられずまた転校による環境の変化に順応できず、劣等感をいよいよ深めていた被告人にとつて、彼女はいわば希望の星であつたのであろう。その同女からこのような態度に出られた時の被告人の精神的衝撃は充分に理解できる。被告人の父甲野義雄は検察官に対しそのころの被告人につき次のように供述している。「…A子から別れ話が出てから太郎の性格がすつかり変つて仕舞いました。始め太郎が何時も飲まないのに酒を飲んでいるのでおかしいなと思つたが、その時はA子と別れたことを知らなかつたのです。とに角その後一寸した事でもすぐ人にあたり、何かいらいらしており、それに夜遊びする様になりました。普段は仕事を一生懸命にやるのに、その頃から定時にやめたりしていました。夜遊びにも毎晩自動車で行くので私も事故を起さないようにとよく注意していました。今までも…ふさぎこんだ事がありましたが女と別れてからの変り方ふさぎ方はとても問題にならない程深酷のようでした。」と。そしてこの精神的動揺が、ついに被告人を原判示(三)の犯行へといたらしめたこと前記のとおりである。もち論、そもそもA子がこのような挙に出たのは、被告人が前記のような傷害事件を起し少年鑑別所に収容され、この事実を同女が知つたためであるから、その大半の責任は、被告人側にあるものといわねばならぬ。しかし、当時漸く一九才になるかならないかの被告人にとつて、いわば初恋の女性から絶交されたということが大きな心理的負因となつたことは理解してやらねばならぬと考える。

ここで弁護人の控訴趣意第一点に対し論述したところを再び想起する必要がある。そこでは被告人に性格の偏倚があることを指摘した。そしてそれは心神喪失や心神耗弱とまではいかないにしても犯行の大きな要因となり大きく影響したことを指摘しておいた。とくに被告人に遺伝的負因があつた疑があり、なかんずくてんかん性要因は被告人の性格形成に大きなハンデイキヤツプとなつたこと、それが被告人の生育環境や脳機能の未熟とあいまつて、このような被告人の性格の偏倚を形成したものであることを再び想起する必要がある。証人兼鑑定人中田修も、てんかんとの関連性がある性格の異常が、被告人の犯行に対し相当なハンデイキヤツプであつた、と供述している。特にこのてんかん性要因は被告人の脳機能の問題である。もち論、この性格の偏倚は被告人をして社会防衛上きわめて危険な存在たらしめている。しかし、この性格の偏倚を犯時ようやく一九才になつたばかりの被告人一人にのみ責任を負わしてよいものであろうか。そこには被告人が求めずして与えられた遺伝的負因があり、被告人の力では如何ともし難い生育環境の問題がある。まして、右のような脳機能の未熟は年令による成熟が期待でき、てんかん性要因に対しては抗てんかん治療の効果がある程度期待できるというにおいておやである。犯時一九才原判決言渡時においても漸く二〇才になつたばかりの被告人に対する量刑に際し、考慮してやらねばならぬ一事由であると考える。

これまで、被告人の年令が犯時一九才であつたことに数回ふれてきた。そして、何といつても、被告人の処遇にあたつて無視することのできない最大の点は、この点である。少年法は、罪を犯すとき一八才に満たない者に対しては、死刑をもつて処断すべきときは無期刑を科す、と定めている。これは、責任面も考慮したものであろうが、主として人道主義的見地に立つて規定されたものであろう。被告人は犯時一九才を過ぎていた。法的には、もとより被告人を死刑に処すことも可能である。情に流れ刑政を弛緩させることは厳に戒めなければならない。しかし、他面、犯時ようやく一八才を過ぎること一年ばかり、前記のように人格も未熟な少年に対する量刑としては、やはり少年法の右精神だけは忘れずに、刑が酷に失しないよう配慮してやることも重要である。

前記のような諸般の事情を彼此考慮すると、犯行そのものは極刑に値するものであり、被告人に対し極刑をもつてのぞんだ原判決の趣旨も充分理解できるけれども、なお、被告人の生命を永遠にこの世から抹殺しさつて、若年の被告人から将来の可能性を完全に否定してしまわねばならないものであるか否か、大きなためらいを感ぜざるを得ない。

なお、その余の罪についてはその罪質態様等諸般の事情よりみて原判決の刑種の選択は相当である。

所詮、原判決は被告人を死刑に処した点において量刑不当であり、論旨は理由がある。

よつて、刑事訴訟法三九七条一項三八一条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従つて当裁判所はさらに次のとおり判決する。

原判決の確定した事実に法律を適用すると、被告人の原判示(一)の所為は刑法二〇四条罰金等臨時措置法三条一項一号に、同(二)の所為中窃盗の点は刑法二三五条に、同現住建造物放火の点は同法一〇八条に、同(三)の所為中B子に対する強姦致傷の点は同法一八一条一七七条前段、一七九条に、同殺人の点については同法一九九条に該当するところ、各所定刑中傷害罪につき懲役刑を、現住建造物放火、強姦致傷の各罪につきいずれも有期懲役刑を、殺人の罪につき無期懲役刑を選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪であるところ、その中の一罪たる殺人の罪につき被告人を無期懲役に処すべく、同法四六条二項本文に則りその他の刑を科せず、原審及び当審の訴訟費用につき刑事訴訟法一八一条一項但書により被告人に負担させないこととして、主文のとおり判決する。

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